杉並の風
近所の散歩から街道歩きへ
片桐寿幸(S57経済)
それは突然に訪れました。きっかけは10年程前の健康診断の結果からでした。血圧とコレステロールの値が若干高めだったため、医師との面談に臨みました。「何か定期的に運動をやられていますか?」、と医師。「これといって何もやっていません。」と私。長年の運動嫌い(運動音痴)のためそれまでは特に運動らしい運動は何もやっていませんでした(ロンドン駐在時もゴルフを全くやらず、周囲からはもったいない、と言われていました。)。
心配した妻から、「近所を散歩しましょう」と誘われ、善福寺公園や井の頭公園、深大寺などへ週末散歩に出かけるようになりました。近くでありながら、歩くことで目に入る景色はずいぶんと変わり、今まで気づかなかった新しい発見が多々ありました。
その後は、高尾山を歩いたり、御朱印集めで坂東三十三観音や秩父三十四観音に行ったりしていましたが、何のきっかけだったかは記憶にないのですが、街道歩きをしよう、ということになったのです。
街道歩きの要領は、中山道の場合、例えば、初日は日本橋から板橋宿まで歩き帰宅、次回は板橋まで電車で行って、そこから大宮まで歩き帰宅、その次は大宮まで電車で行って、鴻巣まで歩く、といったやり方で六十九の宿場町を歩き、最後に京都三条大橋に到着する、というものです。はじめは日帰りで事足りるのですが、さすがに軽井沢に行くために碓氷峠を越えるとなると泊りの準備が必要となってきます(碓氷峠では熊とヒルの心配をしました。)。
街道歩きを効率的かつ低コストで行うためには、遠くに行くときほど宿泊日数をできるだけ長くするのがよいのですが、それもままならずせいぜい3泊4日で東京に戻ってきていました。
中山道の醍醐味は様々ありますが、一例をあげると、日本橋から25番目の望月宿(長野県佐久市)と26番目の芦田宿の間にある茂田井というところは、江戸時代の武家屋敷の街並みがわずかに残っていて、映画「たそがれ清兵衛」のロケも行われたとのことでした。タイムスリップしたような街並みには、「こんなところが日本に残っていたのか!」と言わずには言えないようなところでした。また、島崎藤村の「夜明け前」で有名な木曽路(33番目の贄川(にえかわ)宿(長野県塩尻市)から43番目の馬籠宿(岐阜県中津川市)までの間)には奈良井、妻籠といった古い宿場町そのものが残っており、宿泊もすることができます。
甲州街道を歩いた時は道すがら山梨の桃を頬張り、日光街道では夏の暑い中、杉並木の緑陰で涼を取るとともに森林浴効果でストレス軽減をはかるといったグルメと健康の旅でした。熊野古道を歩いた時は(中辺路から熊野本宮大社までを徒歩)、湯の峰温泉に宿泊し、どっぷり温泉につかって疲れを癒しました。
今は東海道を歩いていますが、やっと浜松まで来ています。途中寄り道もしていまして、例えば24番目の金谷宿(静岡県島田市)では、大井川鉄道に乗って奥大井湖上駅まで行ってきました。また、世界一長い木造橋である「蓬莱橋」(同)も歩いてきました(全長897.4m、通行幅2.4m)。
歩くことにより初めて目に入るものも多く、新しい発見を楽しんでいます。東海道歩きが終了したら次は四国八十八か所巡りか、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)の巡礼路に行くか、いろいろ考えて夢が広がっています。

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慶応義塾出身プロ野球選手
津島 博 (S50 法)


2023年のWBCでは大谷翔平選手の投打にわたる活躍から通算三度目の優勝を達成し、日本国中が湧きました。一時期サッカーJリーグに押され気味だった野球の人気度が復活している気配も感じられます。
さて、杉並三田会のみならず全国の三田会会員の多くは在学中慶早戦(早慶戦)を神宮球場のスタンドから応援したことがあるのではないでしょうか。東京六大学野球、特に早慶戦は出場した選手にとっても、声援を送った塾生にとっても在学中の思い出の1ページになっていると思われます。
私は昔からテレビなどでのプロ野球中継も良く見ていますが、昭和50年代以降で言うと慶應OBで活躍が目覚しかったと思えるのは山下大輔と高橋由伸くらいで、正直なところ他の選手は余り強烈な印象が残っていません。アマチュア野球での実績を考えると、ちょっと淋しく思っています。
しかし、近年は塾出身のプロ野球選手が2010年江藤省三監督就任以降ぐっと増えて来ました。元プロ野球出身の江藤監督はそれまでより選手に厳しい練習を課し、試合で勝つことこそがエンジョイベースボールだと指導し、そしてチームも強くなって来ました。ここ15年間のうち慶應は9回リーグ優勝を果たしており、それに伴ってプロ野球選手の人数も徐々に増えて来ました。
大学別の現役選手ランキングで見ると、2025年春現在では明治大(25名)、亜細亜大(21名)東北福祉大(16名)に次ぐ4位15名(東洋大と同率4位)を輩出しています。
この度は神宮球場や甲子園球場で胸にKEIOのロゴが入ったグレーのユニフォームを着て活躍し、卒業後プロ野球に身を置いている選手を会員の皆さんに紹介したいと思い、資料を作成しました。ここにいる塾OBの選手たちがもっと活躍し、1億円プレーヤーが何人も出て来てほしいと願っています。各選手の顔写真や年棒情報なども付け加えてありますから、大いにご利用下さい。


海中散歩のお誘い
大泉裕敬 (S61 経)


3年前に還暦を迎えて暫くした頃、香港駐在時代の上司から「スキューバダイビングまだやってるの?石垣島行くけど一緒に行かない?」と久しぶりに連絡がありました。
私は1992年から1998年まで、香港に7年間駐在しており、その間にスキューバダイビングにどっぷりハマり、毎週末、仲間とダイビング船を仕立てて香港の海に潜っていました。
香港の海というと、ビクトリア湾の濁って何が沈んでいるかわからない暗い海を思い浮かべる方も多いかと思いますが、我々が潜っていた場所は、香港の街中から車で30分ほど北東にある中国大陸側の西貢港から船で30分から1時間程度沖に出た外海(東シナ海)に近い海で、サンゴ礁もありカラフルな魚も多い素敵な海でした。
週末の朝、20人程度が西貢港に集合して出航、午前中に1本潜って、昼食は無人島に上陸して皆でバーベキュー、午後はポイントを変えて1本~2本潜って戻ってきます。そして、その夜は仲間の家に集まって反省会という名の飲み会でした。
そんな私も日本に戻ってから結婚して子供を授かり、20年ほど全く潜っていませんでしたが、60の声を聞いて、また潜りたいな~と思っていたところでした。 冒頭の私を誘ってくれた元上司は当時70歳で、香港駐在時代は全く潜っておらず、60歳を過ぎてから子供に誘われて潜り始め、今では毎月1~2回、国内外に潜りに行くほど熱中しているようです。私も誘いに乗って、石垣島、宮古島、館山、昨年は南大東島に潜ってきました。今年は渡嘉敷島を予定しています。
スキューバダイビングの楽しみはさまざまあります。私はカラフルな魚たちを観察しながら一緒に泳ぐことも大好きで、マンタやジンベイザメなどの大型の水中生物たちも時々見ることができ、水中写真に夢中になったこともありますが、それ以上に気に入っているのは、ダイナミックな地形の中で味わう浮遊感です。感覚的には「米国のグランドキャニオンの空中をふわふわと漂っているような浮遊感」と言えるでしょうか。
今後も年に数回程度は沖縄方面の離島を中心に潜りに行きたいと思ってますので、ご興味のある方はご一緒にいかがでしょうか。



自己紹介の仕方
広瀬 正幸 (S47 経)
昨年末の杉並三田会忘年懇親会の出来事です。
会の冒頭、前に整列されて居る人達は役員の紹介かと思いきや、コーラスが始まりました。ハモリが決まっているのであれと思いましたらそのはず、コーラス部ヴィエントの部員の方々でした。
そのあと会場で部員の方とお話をする機会が有り、入部のお誘いを受け12月より入りました。合唱の経験は今迄全く有りません。
新しい集まりに参加しますと、先ず待ち受けて居ますのは自己紹介です。私は元々人の名前を覚えるのが苦手なのですが歳を取りますとそれに拍車が掛かります。そう言った方も多いのではないでしょうか。そこで受験勉強の時に良くやった記憶術、何かと結びつけると思い出し易くなります。
私は自己紹介でこう始めることが有ります。
「大都市なのに街中を流れる川に鮎が生息している所が有ります。扨、何処の都市でしょうか。そうです、仙台市です。その川の名前は。広瀬川です。私の名前は同じ広瀬と申します。」
そのあと追っかけで、さとう宗幸歌唱の青葉城恋歌の出だし、広瀬川流れる岸辺~思い出は帰らぬ~、と続けますとちょっとやり過ぎでしょうか。
大分前の自己紹介ですが、日露戦争の旅順港封鎖作戦で部下を探しに沈みゆく福井丸に戻った艦長広瀬中佐が戦死し、初の軍神となりました。広瀬の名前では有名でしたのでそれに肖り、孫です、本当でしょうか、などと言った時期も有りました。尚、私の祖父は職業軍人で日露戦争に係った背景が有ることも多少影響していましたが。
現在では広瀬中佐や歌手のさとう宗幸も大部分の人がご存じないでしょうから、新しいフレーズを考えねばなりませんね。 扨、あなたの場合は如何でしょうか。
「杉並の風」を満喫し、杉並区を終の住処にする
山岸 典博 (H6 総政)
私は、2008年2月から杉並区に住んでいる。 杉並区は、私に文化的な生活を存分に提供してくれる。これが、私にとっての「杉並の風」である。
昨年11月29日に大田黒公園でライトアップ期間に先立ち開催された写真撮影会に参加した。大田黒公園は、音楽評論家の大田黒元雄氏の屋敷跡地につくられた回遊式日本庭園である。檜の門、石畳、茶室、茶室の近くの水の流れ、そして大きな鯉が住まう池などを満喫できる。参加費用は、たったの500円であった。
また、昨年11月28日に杉並公会堂で日本フィル公開リハーサルが開催され参加した。指揮者のパヴェゥ・カプワ氏、ピアノ奏者のセドリック・ティベルギアン氏、そして日本フィル楽団員の音楽づくりを間近で満喫した。参加費用は、なんと無料であった。
これらは、初めての開催ではないから驚きだ。
更に、杉並区は自然豊かな街だ。善福寺川緑地の川に沿って伸びる散策路沿いの桜並木は格別だ。ここでは、春の桜は勿論のことだが、秋の紅葉、そして、冬のカモが水辺で羽を休める姿まで、四季折々の変化を楽しみながら散策ができる。
私が杉並区を知ったのは1990年頃のこと。その頃は、荻窪駅北口に隣接して「鳥もと」という居酒屋があった。確か、ビールケースをテーブルの足代わりにしていたと記憶している。現在は移転して、本店と2号店に分かれて営業している。北海道出身のオーナーは特徴的な方である。荻窪駅北口は随分と綺麗に様変わりしたものの、ところどころで昔ながらの趣を残していて面白い。
私は、2024年3月27日を最終出社日として会社勤めを辞めた。これまでの30年間、仕事ばかりの人生を過ごしてきた。土日に仕事をするのは常習的であり、夏季休暇でキャンプに行ってもビジネス書数冊を読み漁るような人生だった。無駄だったとは思わないが、無理をしてきたのかもしれない。気がつくと昨年9月に他界した父親が脳梗塞で倒れて言語を失った年齢に近づいていた。
私は、今、少し立ち止まって「杉並の風」を満喫しようとしている。




新年のご挨拶
分科会活動を楽しもう

代表世話人 桑島文彦(44工)
皆さま 明けましておめでとうございます。お元気に新年をお迎えになられたことと存じます。
昨年は6月に三田キャンパスで総会懇親会を開催そして12月に吉祥寺エクホテル東急で忘年懇親会を約150名の参加者を迎え楽しんでいただきました。
分科会活動も世話人の皆さんの努力により 活発に展開されました。休会中だった「知的好奇心の会」の再開 そして 新たに「麻雀を楽しむ会」「気ままに楽しく歌おう会」「ユニコン俳句の会」の分科会が発足しました。分科会活動を楽しみましょう。
また 新入会員拡大のための入会促進活動も積極的に実施し 昨年10月に杉並区在住の60代の塾員1200名に案内パンフレットを返信ハガキとともに送付しました。今後 返信ハガキをフォローし三田会そして分科会入会に繋げていきたいと考えています。
さて能登半島では 地震に続き豪雨災害があり 能登半島の人々は復興の意欲を無くすほどのダメージを受けました。
いずれ復興支援のツアーを企画したいと思ってます。その時は参加のほどよろしくお願いします。
ところで 現状 会報委員、ホームページ委員の世代交代が求められています。やってみよう手伝ってあげようと思われたら 直ちに連絡をお願います。
今後も皆さまが「塾員で良かった」と思える組織になるよう努力をしていきます。ご期待ください。
皆さまも近隣の塾員に声をかけてください。三田会ライフを一緒に楽しみましょう。
最後になりましたが 皆さまのご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
