
杉並の風
このページは、杉並三田会会員の学び、気づき、体験を通した思い思いのエッセイ等を掲載するページです。
『チュルカレ』と徴税請負人制度

荒川 晶夫(R4 文)
ル・サージュが 18世紀の始めに書いたフランス演劇『チュルカレ』を読むと、様々な通貨単位が飛び交います。この演劇は主人チュルカレから、下僕のスカパンや下女リゼット、チュルカレの片思いの愛人男爵夫人、男爵夫人の愛人伊達男シュヴァリエといった面々がお金を巻き上げる物語です。終盤には田舎にいるはずのチュルカレ夫人がシュヴァリエの旧友である侯爵の愛人として登場するなど、破天荒な展開が待っている喜劇です。
そして、最終幕でスカパンが4万フラン持っている(巻き上げた)と言いますが、このようにお金が絡んだ演劇なのに、劇中で巻き上げたお金の計算が直ぐには合いません。
台詞を整理すると、出てくる通貨単位が実際に流通するものと帳簿上のものの2種類に別けられます。エキュ、ルイ及びフランが実際に流通する実体貨幣、リーブル、スウ及びドゥニエが帳簿上の計算貨幣、それに当時代用して流通していたスペイン金貨のピストルという具合です。実体通貨と計算通貨の換算率は、王様が任意に変更できたようです。そして、庶民の台詞には実体貨幣が、貴族らの台詞には計算貨幣がよく登場します。登場させる貨幣の単位だけで地位が表現できているようです。
当時の演劇で複数の通貨単位が登場する作品は、他にもモリエールの『病は気から』の薬代の計算風景や『スカパンの悪だくみ』でスカパンが主人の父ジェロンドにトルコ軍艦との架空交渉の話をする場面などがあり、それほど特異な情景ではなさそうです。
さてチュルカレは、租税を代わって徴求する徴税請負人です。
フランスではジャンヌ・ダルクが活躍した百年戦争の頃に、政府の経理を帳面付けをする担当と実際に租税を徴求したり、支払ったりする担当とを分割しました。パリにいた王家の支配が、全土には行き渡っていない群雄割拠の時代です。そこで、帳面付けをする担当はパリから派遣して、その土地の者にはその役を担うことを禁じることで中央集権を進めようとしました。そして、実際に税を徴求するのが徴税請負人で、政府の指示した金額を庶民から取り立てます。しかし、それ以上得た金銭は自らの懐に入れことができました。このため取り立てが厳しく、庶民の怨嗟の的になりました。結局、多くの徴税請負人は、革命の際に断頭台に消えていきました。
なお、『チュルカレ』でなかなか合わなかった4万フランの計算は、実は幕間で繰り広げられたやり取りが解決の鍵となります。
普通部と杉並と私と
吉井英生(H18特選塾員・H1東大教養)
「まなこをあげて あふぐ青空 希望は高し目路ははるけし 慶應義塾の 若き学生」 (作曲 堀内敬三 作詞 佐藤春夫)。「普通部の歌」の第一番の歌詞である。作曲は「若き血」で有名な堀内敬三、作詞は三田文学が生んだ天才詩人、佐藤春夫である。歌詞の第二番と第三番もご紹介したい。「豈春草の 夢に酔わんや ああ我等みな 志あり 慶應義塾の 若き学生」、「いざよく学び いざよく遊び 少年の日を ともに惜しまん 慶應義塾の 若き学生」。中学生にはやや難しい歌詞だが、軽快な曲想と、歯切れの良い歌詞により、今でも大変に好きな歌である。慶應義塾普通部は、 名前に「普通部」という名前を頂く日本唯一の中学校である。
普通部という名称は、1890年に、慶應義塾に大学部を設置する際に、従来の課程を「普通部」と命名したことに由来している。戦後の学制改革で普通部は新制中学校となり、明治の時代から続くこの伝統ある名前が現代に引き継がれた。私がいた頃の普通部は、一学年約250名在籍、うち、外部からの募集が144名(と記憶している)、100名程度が幼稚舎から進学してきた。クラスは、AからEまで5クラスで、クラスのうち半数強が外部受験組、半数弱が幼稚舎からの進学組だった。
まず、私のように中学受験で入った外部生は、幼稚舎から来た子たちにびっくりする。彼らは、6年間、慶應の自由な雰囲気の中で育ったので、進学塾にギスギスと通って受験勉強で視野の狭まった外部生には理解不能なところがある。しかし、入学3ヶ月も経つと、次第に打ち解けて、皆がクラスの仲間となる。3年間クラス替えがないので、クラスの結束は固く、我が昭和56年卒E組は今でも年1回クラス会をやっている。まさに、「少年の日を ともに惜しまん」仲間となるわけである。
ある日、普通部の講堂で、普通部出身で国民的歌手の藤山一郎さん(本名 増永丈夫さん)の講話を聞いた。藤山さんは慶應から芸大に進学したが、慶應に対する思い入れは人一倍だった。藤山さんは幼稚舎からの進学だったが、家業が倒産し、ある時、普通部にとうとうお弁当を持って来られなくなったそうである。それを見かねたクラスメートは、陸軍か海軍の大将の息子さんだったと聞いた記憶があるが、「増永、俺の弁当を食べろ」と弁当箱を差し出したそうである。そうすると、他のクラスメートが、藤山さんに自分のお弁当を分けだして、藤山さんは家計の苦しい時に、ひもじい思いをしなくてすんだのである。藤山さんは、その友情を糧に国民的な歌手となり、慶應には終生、感謝した。まさに、「ああ我等みな 志あり」である。なお、同じく芸大に進学した画家の岡本太郎さんは藤山さんの普通部のクラスメートであった。
私が、普通部に通う時に、「まなこをあげて仰いだ」青空は、杉並の空である。また、今まで、「希望は高く、目路はるけく生きてきた」故郷は杉並である。年齢を重ね、そんな杉並に、もっと関わりを持ちたいと考えたことも、杉並三田会に入会した動機の一つである。そして、私と杉並を繋いだのは、我が母校・慶應義塾であることに、ご縁を感じ、そのご縁にとても感謝したい。

慶應普通部ラグビー部の
試合後の一コマ(右端が私)
関東中学生大会にて
場所は秩父宮ラクビー場
(なお、藤山一郎さんは慶応普通部
ラグビー部の先輩でもある)

慶大ラグビー部
日吉合宿所にて

令和7年6月8日に行われた
普通部昭和56年卒E組クラス会
(真ん中の背の高い人は
伊藤公平塾長)
「急性アルコール中毒」になった事が有りますか
高橋 啓一 (S58 法)
昨年6月に40数年勤めたキリンビール㈱を定年退職し、丁度1年になります。このタイミングで杉並の風への投稿を依頼されましたのも何かのご縁かと思い、多々あるお酒に関するエピソードの中から最初の失敗談をお伝えしようと思います。
私が大学2年生の昭和55年頃は、皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、慶早戦の前夜に、仲間で翌日の応援席の場所取りと称して、神宮球場を囲んで徹夜で騒ぐ時代でした。私は当時あるクラブの日吉代表をしており、その部員十数名と場所取り兼飲み会をしていました。そこへ早稲田大学のある団体が何故かお酒を持って“勝負”に来ました(そのような“殴り込み”をお互いしていましたね)。来れば受けて立つしかなく、日本酒の一升瓶の一気飲みをしたところ、暫くすると何も分からなくなり、急性アルコール中毒で倒れてしまいました。
仲間や後輩が、色々介抱をしてくれたようですが、全く意識が戻らず痙攣をおこし始め、「これは」と言う事で、救急車を呼ぼうとしましたが、巡回していた応援指導部が、「マスコミ等に学校名が出る事は慶応の恥だから」と、呼ばせてくれなかったそうです。皆が困っていたところ、“さすが慶応”で、たまたま通りかかったのか或いは毎年そのような輩がいるので巡視に来られていたのか、名も知らぬ先輩が自分の車で信濃町の慶応病院まで運んでくれました。
急性アルコール中毒の治療方法は、点滴で水分を補給し、アルコールの血中濃度を下げる事しかありません。私も、その通り点滴をされていましたが、苦しくて暴れるのでベッドに寝かせて貰えず、床に転がされて治療を受けていました。明け方意識が戻り先輩に連れられ帰宅しましたが、病院はその日は私のような学生が多く運ばれて来る事は想定内だったようで、「後日、健康保険証を持って来てね」と軽く言って送り出してくれました。また、早稲田の学生も多く運ばれていて、呉越同舟で倒れていたそうです。
回復してからも暫くは、TVでお酒の宣伝を見ただけで気持ちが悪くなり、当時のトラウマか日本酒は受け付けない体(気持ち?)になってしまいました。そのような経験をしながらキリンビール㈱を志望し、入社する事になった時、当時を知る仲間からは呆れられ、褒められもしました。(尚、私が潰れた何年か後には、急性アルコール中毒による学生の死者も出て、徹夜でのお祭り騒ぎは中止になってしまいました)
昨今、アルコール健康障害について色々言われ出しましたが、やはりお酒(特にビール)は良いものです。気持ちがほぐれ、同僚と「お疲れ様!」と乾杯するお酒、久し振りに会った友人と「どうしていた?」と酌み交わすお酒、(何が可笑しかったのか後になると思い出せませんが)仲間と大笑いしながら飲むお酒、落胆している友達を慰めるお酒、初めて会う人とのコミュニケーションの潤滑油としてのお酒等など、皆さんも覚えが有ると思います。
休肝日もなく、人間ドックの前でも「19時までは大丈夫」と勝手な理屈をつけて365日ビールを飲んでいますが(γ-GTPはちゃんと基準値内に入っています)、適正飲酒を心掛けて、これからも美味しいお酒を皆で飲みたいと強く思っています。
最後に、キリンビール㈱では、毎年全社員を対象に、AUDITと言うスクリーニングテストを行っています。これは「現在の飲酒習慣が適切か、健康への被害や日常生活への影響が出るほど問題があるのか」を認識させ改善に繋げる取り組みです。簡単なので、皆さんも是非ご自分の現在の状況をチェックしてみて下さい。
https://www.kirinholdings.com/jp/impact/alcohol/0_1/proper/audit/

近所の散歩から街道歩きへ
片桐寿幸(S57経済)
それは突然に訪れました。きっかけは10年程前の健康診断の結果からでした。血圧とコレステロールの値が若干高めだったため、医師との面談に臨みました。「何か定期的に運動をやられていますか?」、と医師。「これといって何もやっていません。」と私。長年の運動嫌い(運動音痴)のためそれまでは特に運動らしい運動は何もやっていませんでした(ロンドン駐在時もゴルフを全くやらず、周囲からはもったいない、と言われていました。)。
心配した妻から、「近所を散歩しましょう」と誘われ、善福寺公園や井の頭公園、深大寺などへ週末散歩に出かけるようになりました。近くでありながら、歩くことで目に入る景色はずいぶんと変わり、今まで気づかなかった新しい発見が多々ありました。
その後は、高尾山を歩いたり、御朱印集めで坂東三十三観音や秩父三十四観音に行ったりしていましたが、何のきっかけだったかは記憶にないのですが、街道歩きをしよう、ということになったのです。
街道歩きの要領は、中山道の場合、例えば、初日は日本橋から板橋宿まで歩き帰宅、次回は板橋まで電車で行って、そこから大宮まで歩き帰宅、その次は大宮まで電車で行って、鴻巣まで歩く、といったやり方で六十九の宿場町を歩き、最後に京都三条大橋に到着する、というものです。はじめは日帰りで事足りるのですが、さすがに軽井沢に行くために碓氷峠を越えるとなると泊りの準備が必要となってきます(碓氷峠では熊とヒルの心配をしました。)。
街道歩きを効率的かつ低コストで行うためには、遠くに行くときほど宿泊日数をできるだけ長くするのがよいのですが、それもままならずせいぜい3泊4日で東京に戻ってきていました。
中山道の醍醐味は様々ありますが、一例をあげると、日本橋から25番目の望月宿(長野県佐久市)と26番目の芦田宿の間にある茂田井というところは、江戸時代の武家屋敷の街並みがわずかに残っていて、映画「たそがれ清兵衛」のロケも行われたとのことでした。タイムスリップしたような街並みには、「こんなところが日本に残っていたのか!」と言わずには言えないようなところでした。また、島崎藤村の「夜明け前」で有名な木曽路(33番目の贄川(にえかわ)宿(長野県塩尻市)から43番目の馬籠宿(岐阜県中津川市)までの間)には奈良井、妻籠といった古い宿場町そのものが残っており、宿泊もすることができます。
甲州街道を歩いた時は道すがら山梨の桃を頬張り、日光街道では夏の暑い中、杉並木の緑陰で涼を取るとともに森林浴効果でストレス軽減をはかるといったグルメと健康の旅でした。熊野古道を歩いた時は(中辺路から熊野本宮大社までを徒歩)、湯の峰温泉に宿泊し、どっぷり温泉につかって疲れを癒しました。
今は東海道を歩いていますが、やっと浜松まで来ています。途中寄り道もしていまして、例えば24番目の金谷宿(静岡県島田市)では、大井川鉄道に乗って奥大井湖上駅まで行ってきました。また、世界一長い木造橋である「蓬莱橋」(同)も歩いてきました(全長897.4m、通行幅2.4m)。
歩くことにより初めて目に入るものも多く、新しい発見を楽しんでいます。東海道歩きが終了したら次は四国八十八か所巡りか、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)の巡礼路に行くか、いろいろ考えて夢が広がっています。

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慶応義塾出身プロ野球選手
津島 博 (S50 法)


2023年のWBCでは大谷翔平選手の投打にわたる活躍から通算三度目の優勝を達成し、日本国中が湧きました。一時期サッカーJリーグに押され気味だった野球の人気度が復活している気配も感じられます。
さて、杉並三田会のみならず全国の三田会会員の多くは在学中慶早戦(早慶戦)を神宮球場のスタンドから応援したことがあるのではないでしょうか。東京六大学野球、特に早慶戦は出場した選手にとっても、声援を送った塾生にとっても在学中の思い出の1ページになっていると思われます。
私は昔からテレビなどでのプロ野球中継も良く見ていますが、昭和50年代以降で言うと慶應OBで活躍が目覚しかったと思えるのは山下大輔と高橋由伸くらいで、正直なところ他の選手は余り強烈な印象が残っていません。アマチュア野球での実績を考えると、ちょっと淋しく思っています。
しかし、近年は塾出身のプロ野球選手が2010年江藤省三監督就任以降ぐっと増えて来ました。元プロ野球出身の江藤監督はそれまでより選手に厳しい練習を課し、試合で勝つことこそがエンジョイベースボールだと指導し、そしてチームも強くなって来ました。ここ15年間のうち慶應は9回リーグ優勝を果たしており、それに伴ってプロ野球選手の人数も徐々に増えて来ました。
大学別の現役選手ランキングで見ると、2025年春現在では明治大(25名)、亜細亜大(21名)東北福祉大(16名)に次ぐ4位15名(東洋大と同率4位)を輩出しています。
この度は神宮球場や甲子園球場で胸にKEIOのロゴが入ったグレーのユニフォームを着て活躍し、卒業後プロ野球に身を置いている選手を会員の皆さんに紹介したいと思い、資料を作成しました。ここにいる塾OBの選手たちがもっと活躍し、1億円プレーヤーが何人も出て来てほしいと願っています。各選手の顔写真や年棒情報なども付け加えてありますから、大いにご利用下さい。


海中散歩のお誘い
大泉裕敬 (S61 経)


3年前に還暦を迎えて暫くした頃、香港駐在時代の上司から「スキューバダイビングまだやってるの?石垣島行くけど一緒に行かない?」と久しぶりに連絡がありました。
私は1992年から1998年まで、香港に7年間駐在しており、その間にスキューバダイビングにどっぷりハマり、毎週末、仲間とダイビング船を仕立てて香港の海に潜っていました。
香港の海というと、ビクトリア湾の濁って何が沈んでいるかわからない暗い海を思い浮かべる方も多いかと思いますが、我々が潜っていた場所は、香港の街中から車で30分ほど北東にある中国大陸側の西貢港から船で30分から1時間程度沖に出た外海(東シナ海)に近い海で、サンゴ礁もありカラフルな魚も多い素敵な海でした。
週末の朝、20人程度が西貢港に集合して出航、午前中に1本潜って、昼食は無人島に上陸して皆でバーベキュー、午後はポイントを変えて1本~2本潜って戻ってきます。そして、その夜は仲間の家に集まって反省会という名の飲み会でした。
そんな私も日本に戻ってから結婚して子供を授かり、20年ほど全く潜っていませんでしたが、60の声を聞いて、また潜りたいな~と思っていたところでした。 冒頭の私を誘ってくれた元上司は当時70歳で、香港駐在時代は全く潜っておらず、60歳を過ぎてから子供に誘われて潜り始め、今では毎月1~2回、国内外に潜りに行くほど熱中しているようです。私も誘いに乗って、石垣島、宮古島、館山、昨年は南大東島に潜ってきました。今年は渡嘉敷島を予定しています。
スキューバダイビングの楽しみはさまざまあります。私はカラフルな魚たちを観察しながら一緒に泳ぐことも大好きで、マンタやジンベイザメなどの大型の水中生物たちも時々見ることができ、水中写真に夢中になったこともありますが、それ以上に気に入っているのは、ダイナミックな地形の中で味わう浮遊感です。感覚的には「米国のグランドキャニオンの空中をふわふわと漂っているような浮遊感」と言えるでしょうか。
今後も年に数回程度は沖縄方面の離島を中心に潜りに行きたいと思ってますので、ご興味のある方はご一緒にいかがでしょうか。


